第8回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門・最優秀賞受賞作品


      『 鹿せんべい』
        


                                             本橋 達夫

 小学校までは普通に友達と遊べていたのに、中学に入ると急に距離を置かれるようになった。友人と呼べる人は一人もいなくなり、放課後に一緒に帰ってくれる人は誰もいなくなった。
 心当たりはある。中学入学のときの、自己紹介だ。
 アニメが好きだった私は、自己紹介のときに、

「趣味はアニメ鑑賞です」

 と言ったのだが、これが「子供じみている」と受け取られたのだった。十二歳から十三歳の少年である。大人びていることが評価される時期である。この年代にとって、幼稚であること、子供っぽいことは致命的だった。

「あいつ、いつまでたってもガキみたいだな」

 わざと大声でそう言われるようになり、それと同時にいじめも始まった。お金を要求されることはなかったものの、暴力まがいの嫌がらせや村八分などがおこなわれた。胸ぐらを捕まれる、掃除の時間にモップで叩かれるなどは日常茶飯事であり、黒い制服には白い足跡がいくつも着くようになった。

 クラスには不良めいたリーダーグループがいて、彼らが集団をまとめていた。数学や理科などの難しい宿題が出されると、

 「お前、やっておけ」

と不良たちから何冊もノートを押しつけられ、私は休み時間を削ってそれらをこなした。

 小学校から中学まで、ほとんど同じ顔ぶれである。一緒にランドセルを背負って遊んでくれた友達も、中学の制服を着ると急に大人のマネをするようになり、強い者に服従するようになった。私がいじめられていることを知ると、それまで友達だった人たちは一斉に私から離れた。ヘタに私の味方をしたら、自分までいじめられるかもしれない。そう危惧したのだった。いじめられないためには、いじめる側に回るしかない。クラスには「いじめる不良たち」と「それに加勢する者」と「黙って傍観する者」の三つが生まれた。
 
 (こんな目に遭っているのだから、助けてくれてもいいのに)

 そう思ったりもしたが、もし自分がいじめられている人を見たら、味方になってあげていたかというと自信がない。私だって、いじめの被害が及ぶのが怖くて傍観者に回るかもしれないからだ。

 私のクラスには男子生徒が20人いたが、私一人がいじめられていて、他の19人がいじめているという構図ではなかった。実際はもっとひどかったのだ。
 一年A組のあいつはどうやらいじめられているらしい。そんな噂を聞きつけると、他のクラスからも不良生徒がやってきて、私をいじめるようになった。中学校というのはとても狭い世界である。クラスでいじめられていたら、それは同じクラスの女子にも分かるし、それはやがて噂となって学年全体に広がっていく、私がいじめられていることは学年のすべての生徒が知ることになり、そこに男女の区分はなかった。

 よく、いじめの話になると、「どうして先生に相談しないのか」とか「どうして親に相談しないのか」といった話になる。大人の口からその手の話が出ることが多い。それらを口にする人のほとんどはいじめられた経験がない人であり、現代のいじめを知らない人である。

 中学生のいじめで、大人はほとんど力にならない。先生の大半は不良のご機嫌を伺うのに必死であり、不良たちの顔色を見ながら授業を進めている。先生たちの多くは不良を非常に恐れており、いじめがクラスにあることはうすうす知っていても、もはや心理的に不良に怯えきっており、抵抗はできないのだった。

 また、先生たちは長年の教育現場を見てきた経験からか、不良がクラスを支配していることがどれほど便利かを知っていた。不良の一団が存在しており、彼らが集団を統率することによって、一種クラスはとても安定した状態になる。一人くらいの犠牲者が出ても、それによってクラスが安定するのなら、教師はそれを見逃す。二人か三人の腕力に自信のある不良生徒がクラスにおり、それに怯える大多数の生徒がいるという構図のほうが教師には扱いやすい。もはや教師はいじめられている生徒にとって味方でもなければ相談相手でもなかった。不良の一味として、攻撃に加勢する側に回っていたのだった。

 今でも覚えているシーンがある。

  放課後、先生と私を含む生徒数人で合唱コンクールについて話し合っていた。ふと見ると、先生が熱心に書き物をしている。何を書いているのだろうと見てみると、先生は私の教科書に落書きをしていたのだった。大切な国語の教科書にロボットの落書きをしたあの先生を、私はどうしても先生と呼ぶことができない。

  教師の多くは生徒たちの力関係を非常に敏感に見抜いていて、誰が支配的で誰が迫害されているか、よく知っている。そして大概の場合、教師は強い者の側につく。そちらのほうが、身に及ぶ害が少ないと本能的に感じ取っているのかもしれない。トイレで喫煙がなされていることを知っていながらも、多くの教師は見て見ぬふりをしていた。その一方、いじめられている生徒にはきわめて高圧的だった。授業中何度も当てる、分からなかったら立たせるといった行為を、不良にはさせず、いじめられている者にはした。

 こういったことがあるので、大人は信用できないと思うようになった。親は別かもしれないが、唯一の味方である親も、また分からなかった。

 「あんたが悪いんでしょ」

 そんな言葉が返ってくる可能性もあり、相談できる相手ではなかった。父は家にいないことが多く、もっぱら相談相手は母ということになるが、「この子は学校でいじめられて、可哀想な子だから」と扱われるのは何より子供としてつらいことだった。いじめてもいないし、いじめられてもいない。学校では普通に楽しくやっている。家庭では、そうして扱って欲しかった。母は厳しい人で、

 「学校に行きたくない」

と私が言っても、休ませてくれない人だった。今は保健室登校や不登校なども認められてきているようだったが、私の頃はそのような逃げる手段がなかった。いじめられていて、どうしても学校に行けない者は家に閉じこもるか死を選ぶしかなかった。

 私も、どうしようか悩んだとき、死を選ぼうと思った。もはや、どんなに苦しくても、学校は休ませてもらえないのだ。学校に朝、登校したら、私の机だけが廊下に出されている。そんな状態で満足に勉強などできるはずもない。精神状態は最悪であり、学校に行けないのならもうこの世から消えようと思った。

 「死ぬ気になれば何でもできるのに」

たまに、そんな言葉を聞くことがある。そういった人たちは、死ぬ気になったことがない人たちだろう。死ぬ気になれば何でもできるのなら、全ての人が何でもできる状態になり、人間が長年苦悩してきた悩みは全て解決することになる。実際に死ぬ気になると分かるが、「もう死ぬしかない」と思い詰めると、何でもできる状態になるどころか、楽に死ねる方法ばかりを探すようになる。万能の境地に達するどころか、より苦痛のない死に方を探し求めて情報を探索するようになり、もう生きていく活力はないに等しい。

 死ぬ勇気という言葉もよく聞かれる。死ぬ勇気があれば、何にだってチャレンジできると聞かされるが、人は勇気で死ぬのではない。絶望で死ぬのだ。希望や未来といったものを失ったとき、人は死に向かう。絶望が背中を押せば、死はすぐそばにあるのだ。

  (もう少し楽しいことをしてから死にたいな)

 そう思ったりもしたが、あまり希望は持てなかった。中学でこれだけいじめられているとしたら、高校でもいじめられる可能性が高い。テレビでは、人間関係が原因で死を選ぶサラリーマンのニュースが流れたりしている。どうやら会社員になってもいじめはあるようだ。だとしたら、もう死しか逃げ場はないのではないか。私がそう思うようになったのは、大人たちの口癖からである。 母も先生も、とにかく、

 「世の中っていうのは、そんなに甘くないんだぞ!」

という言葉を頻繁に口にしていた。塾の先生もテレビから流れるバラエティー番組も、

 「人生は甘くないんだぞ!」

という言葉をしょっちゅう口にしていた。そうか、生きるって、そんなに大変なことなんだ。とてもじゃないが、そんな大事業は自分にはできそうもない。なにしろ、中学の人間関係すら満足にこなせないのだ。だとしたら、高校、大学、社会人になっても苦労するのは目に見えている。

 アルバイトや会社員だったら、辞めるという方法で逃げることができる。だが、中学生に学校を辞めるという選択肢はない。義務教育だし、学校は行って当たり前の機関なので、行かないという選択肢を親が許さないのだ。

 あの頃は、何よりも月曜日が来るのが怖かった。月曜日が始まれば、そこから六日間、逃げることができない苦痛が待っている。大人からすればわずか三年でも、中学生の私には、途方もないような長い時間に感じられた。

 そんなある日、私は修学旅行で奈良に行った。修学旅行といっても、私は一緒に行動してくれる友達がいないので、単独行動である。バスを降りて、自由時間になっても、行くところがない。仕方なく、奈良公園をぶらぶらと歩いていた。

 鹿が歩いている。鹿の世界にもいじめはあるのだろうか。鹿の世界にも支配的な者と服従的な者がいて、すみっこでしか生きられない鹿もいるのだろうか。そんなことを考えながら歩いていたら、鹿が寄ってきた。そうだ、鹿せんべいをあげよう。私は売り場に行き、鹿せんべいを買おうとした。

 ところが、である。鹿せんべいを販売しているおばさんは、ウトウトと居眠りをしていたのだ。世の中には、仕事中に居眠りをしている人がいる。そのことが、妙に新鮮だった。

 私はおばさんを非難したいのではない。逆である。居眠りしながらでも生きられる社会のほうが健全なのではないかと思うのだ。「世の中はそんなに甘くないぞ!」と脅かしている大人のほうが間違っていて、居眠りをしながらのんびり働いている鹿せんべい売り場のおばさんのほうが、はるかに正しいように見えた。

 世の中はそんなに甘くない。それが客観的に見て本当なのかどうか、私には分からない。ギリギリのところで必死に生きている人もいれば、わりとのんきに暮らしている人もいる。ただ一つ言えるのは、「世の中はそんなに甘くないぞ」という言葉は、これから社会に出ようとしている若い人を怯えさせる言葉だということだ。中学校の図書館で読んだ本に、こんなことが書いてあった。

 「人生なんてものは、食って寝ていれば、それでいいのだ」

これを書いたのは八十代の作家だったが、本当にそうだと思った。たかが人生ではないか。そんなに大げさに考える必要はないのだ。犬だってトンボだってうなぎだって、みんなそれなりに好きに生きている。実際は生きるということはものすごく簡単なことで、それをわざと大げさに捉え、生きるということがあたかもとても大変なことのように思わせている社会のほうがおかしいように思えた。

 世の中はそんなに甘くない、と言えば、少年たちは気を引き締めるかもしれない。だが、それと同時に、子供たちをいたずらに怖れさせ、生きにくくさせているのではないか。大人たちが、

 「生きるって誰でも簡単にできることなんだよ」

と言えば、どれだけの子供が助かるだろう。崖っぷちまで追い詰められている大人たちには、とても言えないセリフかもしれない。だが、子供に生きていてほしいなら、言ってあげるべきセリフだろう。生まれてから天寿をまっとうするまで、人生を楽しめばいいのであり、いたずらに苦しむ必要はないのだ。

 「こんなに苦しいのなら、もう生きていたくない」

そう考えている中学生時代に、

 「誰だって、どんな大人だって、生きることぐらいなら簡単にできる」

という言葉を一度でも聞けたなら、どれだけ救いになっただろう。大人がすべきことは、生きることがどれだけ大変かを力説することではなく、生きることがいかに簡単かを説くことではないか。

 命は自ら断ち切らなくても、いずれ終わる。自然とその日がやってくるまで、人生を思う存分味わえばいい。つらい日々も思い出したくもない体験も、いつかは人生のワンシーンとして味わい深く残る。イヤなことやつらかったことは年と共に消えていき、楽しい思い出だけが残る。本来、人生はそういうものなのではないか。ただ苦しくてつらいだけなら、人間は子供を作らなくなり、とっくに滅びているはずである。つらくても楽しいことがあり、きつくても時には愉快なことがある。だからこそ、人間は子孫を残し、ここまで生きてきたのではないか。

 鹿せんべい売り場のおばさんは、居眠りをしながら仕事をしていた。その光景はちっとも不愉快なものではなく、逆に、
 
  (ああ、生きるって案外簡単なことなんだな)

 ということを教えてくれた。居眠りをしながら店番をするおばさんと、その周りにいる鹿たち。そのどちらもが、生きていくことがどれだけ簡単なことか、教えてくれているように感じた。